昭和五十五年五月一日 朝の御理解

 御理解第五十四節 「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」


 心配はないと仰せられます。その境地を目指して信心の稽古をさして頂かなならん。取りも直さずそれはお徳を受けるという事です。お徳を受ければ心配はないね。心配をせんですむ信心。例えばお野菜を作ります。耕して肥料を施してそこに種を蒔く。お野菜が芽をきる。それから虫がついたら虫を取り、消毒もせんならん。少し土地が乾いてきたら水も撒かなならん。まあいろいろな手入れ、手立てをね。そこに生まれてくるのが私は安心だと思うね。これで立派に出来る。これでもう風さえ吹かねば、大雨にならなければ、そういう天変地変的な事はどんなに手入れをして見事に出来ておりましても、それがあっという間に流されたり倒されたりという事がありますけども、これは仕方のない事です。種を蒔いても蒔きっぱなし、虫がついてもそれを取ろうともしない、葉は赤くなりよっても肥料も与えない。これでよい野菜が出来るという事もないが、こげんとが出来ても市場にも出されんという事になるのじゃないでしょうか。
 私は心に安らぎを、それが安心ともなりそれが宗教の究極の願いであるところの大安心にもなるでしょうね。それにはまず私共がね、心配がないというほどしの日々の生活をさして頂くためには、本気での信心がなされて本気で本心の玉を磨くものぞや、日々の改まりが第一ぞとね。合楽ではその修行が特約、わざわざというものでなくてね。それが自然の中でね、出来ていく手立てをですね、教えによってそれも合楽理念にまとめて、身を持ってごく自然な働きというものが繰り返される。
 それがお百姓さんが野菜を作るのに種を蒔いたり、草を取ったり、肥料を施したりするようなものなのです。ですからごく自然なのでしょう。蒔いとってほうからかしておくというのでは、そこには安らぎも安心もあるとは思われません。こんなのが出来ても市場には出されまいというような事になります。けども手を入れられるだけ入れてこの調子でいけば見事に出来るだろう、高い安いは神様任せ、ここに又天変地変があった時には又それを黙って受けて行くというような生き方が身に付いて行くところから、言わば安らぎの生活がありいよいよ神様を信じて生まれて来る安心、ね。そこから大安心を目指しての信心。徳のない間は心配する。だから徳を受ける事のための信心をお互いさして頂いておるという事になるのですね。だから信心を頂く、お徳を頂くという事をね。
 おかげを頂くということは、その次の次なんです。けれどもお互い始めの間は誰でもそうですけども、おかげだけが眼目。そして自分の思うようにならなければいかにも神様が力がなかったかのように、大抵信心したばってんおかげ頂ききらだったといったような事で信心と思うておるなら、今日のようなところは分からない、ね。
 身にご神徳が付いて来る。それは自分の心の中にいつでもどんな場合でも、どのくらい安心があるかという事をみていけば分かるのです。それはもう一つ言葉を変えると、神様からこの位の御信用を受けておるなということにもなるのです。それが今申しましたように野菜を作るのに手入れをする。その手入れをしておれば安らぎが生まれて来る。私共が一番神様から喜んで頂くことは本心の玉を磨く事に、日々の改まりの事に、日々の生活が言うなら合楽理念に基づいての生き方が出来ておるところに生まれて来るのが安心でありね。
 もし自分が寝たりコロどったりしとって、少しの信心の精進もなされんで私は神様を信じておりますでは、それは安心ではなく横着です、ね。横着な人がおりますよね。私共は神様を信じとるけんでといったような考え方ではね。それは横着です、ね。横着ではおかげは頂かれない。
 そこでです。ならそういう修行をさして頂きながら、どこに焦点を置いての日々の信心生活かと言うと、いつでもどんな場合でもね、お任せするという事だと思いますね。だんだん神様が分かってくる、神様を信じる力も少しずつ出来て来る。いやこの神様は絶対だというふうに分かって来れば来る程に、この神様の働きを頂かねば立ち行くことではない事が分かって来る。だからこの神様にもうお任せするよう他に手立てはない。ただ安気、安穏にしておっては、言うなら日々の生活の上に合楽理念を行じながら、そして尚かつ降ろうが照ろうがこれから先はあなた任せ、そこに生まれて来るのが私は安心だと思います。言うならば心配のない生活なんです、ね。そういう生活を繰り返さして頂く。そこからいよいよ確固たる信心の確立。信心の確立ということは心配のない世界、どんな場合でも安心しておれれる生き方、それは神様を信じるから安心していけれる。降るとか照るとかも、あなた任せである。そして出た所勝負である。その出た所を成り行きとして合掌して受けて行こうという生き方ね。そういう生き方をです、私は生活の中にすっぽり頂ききらないけんと思う。思い出したように金光様、思い出したようにお参りをする、お願いをする、お伺いをするというのでは、いつまで経っても教祖の今日の御理解にありますようにね、徳のない間は心配する。もしいつも心配、不安でないならお前は横着だと言われても仕方がない。又事実そうですね。お野菜一つ作るでもやはりそれに充分の手を入れてこそ初めて、これで見事に出来ていくということを信じるという事も出来るでしょうが。特別の天変地変がない限り立派に出来る。私共の心の中にもそうして育てる信心の心がけというものがです、日常生活の中にいつでもどんな場合でも心に焦点を置いてまいりますと、心が安らいでまいります。そしてよしそれが雨で風で流れても折れても、それから先はご神意だ、ご神愛として受ける。もうその向こうには絶対のおかげがある事を、それは私が確信しておる。
 信心しておるからというて、降る事も照る事もないという事はないね。それこそ雨か嵐かという事もあるけれども、ね。けれどもそういう生き方。信心しょってどうしてこういう難儀という事もあるけれどもそれを神愛、それを節と思うて有難く受け抜いた向こうには必ずおかげがあるということは、その事によって力を受けておるからである。合楽が今日までおかげ頂いて来た事は皆、何かのある度に合楽は大きくなっていったということになるのです。だからどういう事が起こって来てもです、もう私はこれでへこたれた、これで私はもう信心はやめたというような事があってはならないという事。どんな場合であっても、これはまだ信心が足りんのだと思うて勢いのある信心をさして頂いて、必ず日勝り月勝り年勝りのおかげが受けられて信心の真を現していく。そこからね、神様のご神意も厚くなりお徳を受けられて、徳のない間は心配する、ご神徳を受ければ心配はないという世界に出ることが出来ると思うですよね。どうぞ。